去年秋の青森県十和田暮らしから3ヶ月が経ち、来月からは北海道下川町暮らしが始まります。
あれから今も十和田でお会いした方たちと、連絡を取り合ったり東京でお会いしたり、訪れた街の人たちとゆるく繋がりを保てています。
暮らしの圏内を広げていくことで、「僕」以外の主語が増えていくこと。それがこんなにも喜ばしいことだと思いませんでした。そんなきっかけをくれた街での記録。
十和田移住体験記第3弾、いよいよラストです。今回は「視点」にまつわるエピソードをすこし。
子どもの視点
イベントスペースで作業していたときのこと。
おなじ会場にいた子どもが、僕のカメラで写真を撮りたいと言ってきた。ついさっきまで一緒に遊んでいた子どもたちだった。
僕のことを知っている人からすると、子どもとよく一緒になって遊んでいる光景は珍しくない。
「遊んでくれてありがとうございます」と言ってくださる方もいるのだけど、それはこっちのセリフだ。「僕と遊んでくれてありがとう」と思う。
彼らのひとりが「写真を撮りたい」と言ってきたものだから、すこし悩みながらもストラップを首にかけて貸してやった。
落として壊れたらもちろん困るので、「落とさんようにな」と何度か念を押す。
その子はふたたび会場に戻り、夢中でシャッターを切っている様子が、部屋の窓越しからも伝わった。心配そうに端から見守る僕の元へ戻ってきたのは、それから10分ぐらいのことだった。
意気揚々と見せてくれる写真はどれもブレブレで、思わず笑ってしまったのだけど、それがどこか味のあるものに感じたのはなぜだろう。
たぶん僕ら“おとな”であれば決して撮らない、いや撮れないものだったからに違いない。仮に撮れたとしても、すぐにカメラの「削除ボタン」を押してしまうもの。
そんな写真たちをじっくり見たときに、彼らが見てる世界をすこし覗いたみたいで、とても新鮮に映ったんだと思う。上手い下手ではなく、惹かれたんだと思った。
「まずはカメラをちゃんと構えて、ボタンを押してピントを合わせて、固定したままシャッターを切る」
そんな感じで写真の撮り方を彼らに教えてる最中、「あ、こうやっておとなの常識を押し付けてしまうのかもしれない」と思った。
確かに基本やルールは大切なのだけど、それを守った上で、その枠を超えて自由な発想をするのは、思う以上に難しい。そういう点で僕らは彼らに及ばない。
ちゃんとした撮り方はまた別の機会にね。いまは思うまま撮ろう、自由に。そしていつかまたカメラを手にしたとき、今回のことを思い出してくれたら嬉しい。
アートの面白さ
十和田にいるあいだ、アート関係者の方から、こんな話を聞いた。
アートは本来意味を求めるものじゃないのに、「何を伝えたいか」がなければ評価されづらかった。だけど最近、作品そのものに意味がなくとも、評価されるようになってきたと感じると。
そんな話がストンと腹落ちしたのは、十和田市現代美術館に訪れたときのこと。とある空間作品の展示で、まったく意図がわからないものがあった。タイトルは「無題」。
それを見たとき、ハッとした。ああ、僕らは意味を見出さない限り納得できないのかと。自分の中で納得する回答を出すために、意味を見出そうとしてしまう生き物なんだと。
だけどそれは無意味なのかもしれない。アートの面白さは「正解」がないこと。逆にいえば、ひとつひとつが「正解」であること。
だからこそ感じた違いを楽しめること。そんなところにアートの面白さがあるのだと知った。
それがこの先役に立つかどうかなんてわからない。だけど少なくともいま、心が弾み気持ちが軽くなった。それだけで十分ここに訪れた価値がある。そう感じた。
おとなになること
もしここでひとりなら、またなにかに苦しんだのかもしれない。十和田の人たちと溶け込み楽しそうに話す、hyphen,のメンバーを見て、ふとそんなことを思った。
端からみんなの楽しむ姿を眺めているのが好きだ。決してお酒が入ったからといって眠たいわけじゃない。随分と昔のことが頭をよぎる。
幼少の頃、すれ違う年上の先輩を見ると、怖くなってしまう自分がいた。前はランドセルを背負って通学していた人たちが、いまは制服を着て自転車に乗っている。
その時間の経過に恐れてしまうことがあった。漠然と大人になることがずっと不安だったんだと思う。だけどそれは、大人になることがひどく深刻なものだと、思っていたからかもしれない。
あの頃の不安はないといえば嘘になるけど、限りなく淡く溶けてしまったように感じる。いま、おとなの人生も十分楽しいものだと思えているから。
生きる喜びや幸せはすぐ近くにあるもの。それがふと目に見えて表れる瞬間がある。そんなことを感じられた今回の十和田暮らし。またふらっと訪れたい。そう心から思えた夜だった。
▼これまでの十和田移住体験記