誰でも正論を振りかざせる、世の中だからこそ、いま改めて大切にしたいこと。

ひとはそもそも分かり合えない。それでも分かり合えないなりにわかり合おうとする。大学生のときにこの考え方が形成され、このときから周りにも寛容になり始めた。

それまで自分は他人を理解できると思っていたし、人は分かり合えるものだと信じて止まなかった。あわよくば人を変えられるという傲慢さを持ち合わせていたようにも思う。

だけど海外にいると、否が応でも私たちは違うということを、突き付けられる。なにかが良いとか悪いとかじゃなく、「ぼくらは分かり合えない」ことを自覚した。

そんな考え方がいつの間にか定着し始めたころ、どうやらそうではない人たちもいることを知る。

最近「精神的に物騒な国だな」と思うことがある。

なにがそう思わせるんだろう。ぼんやりと考えてみたところ、「自分のものさしで他人を計ってしまう怖さ」、を感じたことが大きな要因だった。

自らのものさしで測ること自体に問題はないのだけれど、そのものさしの範疇を超えてしまうと、いとも簡単にだれかを傷付けてしまう危うさを感じたのだ。

当たり前だけれど、ぼくらは誰ひとりとして同じではない。なのになぜか、あなたもわたしと同じなのだ(同じであってほしい)という気持ちが、根底にあるようだった。

 


 

とあるバスに乗ったときのこと。あいにくバスに乗った時間が、地元の学生の下校時刻と重なってしまい、車内は学生でごった返していた。

その中のある男子学生グループの会話が耳に入る。好きな子にアタックしている一人の男子学生の話だった。どうやら好きな子に送ったLINEの内容を、周りの男子たちに見られてしまったらしい。

車内に響くボリュームで周りが彼を茶化すものだから、彼の勇気ある行動のひとつひとつがしっかりと耳に入ってきた。

「オレそんなんしてへんし」と彼は抵抗するも、「オレ見たしそのLINE!」と一人が反論すると、それに乗っかるように周りの男子も言いたい放題声をあげていた。

そんな光景をみて忘れかけていたいつかの記憶を思い出した。たしかにむかしこんなことが幾度となくあった気がする。ひとの恋愛をバカにしたがる学生特有のノリだった。

ところがそんなノリは年を重ねるにつれてなくなり、ひとの恋愛を批判するどころか共感、応援されるようになっていった。

 


 

それはおそらく大半の人が、恋愛を経験したからだろう。恋愛に伴う辛さや難しさ、それぞれかたちは違うけれど、人を好きになることを、知ったからだと思う(自ら経験したことを否定するのは、自分自身も否定することにも繋がるから、だとも感じる)

ところが学生特有のノリが形を変えて、大人の社会でも至るところに蔓延っている。

今のこの世の中でできる限り寛容な気持ちを持って心地よく暮らしていくためには、結局のところかつての恋愛がそうであったように、些細なことでも行動を起こしていくことが大切なんじゃないかと思う。

行動を起こして初めてわかることがある。やってみてこんなにも大変だったんだと感じることは、だれもが経験あると思う。そんな経験を積み重ねていくことで、自分の中で測りきれないものに出合ったとしても、柔軟に受け入れられるようになると思うのだ。

ものさしで測ってしまうことが問題なのではなく、ものさしの長さは人によって違うことを自覚し、測りきれない場合にこんなものは意味がなかったと、取っ払えることができるかどうか。

誰でも正論を振りかざせるようになった今だからこそ、自ら考えることをやめないで行動を起こしていくこと。それが今の世の中を心地よく生きる、ひとつの方法なんだと、いまは思う。

ずっと潜水しているような感覚だったので、息継ぎがてら、とりとめのない文章ですが書いてみました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

最近風邪が流行ってるので、体調にはお気をつけください。僕は海外から戻ってきて、なぜか鼻血が止まりません。

今日はこれにておしまい。
それではまた!